トップページ
Accueil
研究書と翻訳(画像付き)
Études et Traductions (avec image)
参考文献リスト
Bibliographie
研究論文・書評
Articles / Comptes-rendus
シンポジウム・講演
Colloques / Conférences
芸術家関連データリスト
Liste des occurrences concernant les artistes
原典の参照
Livres en ligne
情報科学の道具
Outils informatiques
バルザック年譜
Chronologie
バルザック研究会開催記録
Société japonaise d’études balzaciennes
生誕200年祭
Bicentenaire
『人間喜劇』アルバム
Album « La Comédie humaine »
映像化作品
DVD
関連サイト
Liens
icon オノレ・ド・バルザック年譜

(アンダーラインのある語句をクリックすると関連する画像が見られ、さらにその画像をクリックすると画面が拡大されます)


1799年
 5月20日、 トゥールにて生誕。父ベルナール=フランソワ(52歳)、母アンヌ=シャルロット=ロール(21歳)の第2子。長子は前年同月同日に生まれたが、生後1ヵ月で死亡。母乳で育てることを恐れた両親は、オノレを近郊のサン=シール=スュール=ロワールの憲兵の家に里子に出す。父は、南仏の農家の出身で、バルッサという姓をバルザックに変え、ルイ16世側近の秘書となった。フランス大革命後は、革命政府・共和政府の官吏となり、この時はトゥール第22師団糧秣部長。母は、パリの商家の娘で、神秘主義の本を愛読する繊細な美人。

1800年
 9月29日、妹ロール=ソフィー生まれる。兄オノレと同じ乳母によって養育される。

1803年
 4月18日、妹ローランス生まれる。この時父親は、貴族の身分を示す小辞である ≪ド≫を付け、ド・バルザックと署名する

1804年(5歳)
 4月、ル・ゲー寄宿学校の通学生となる。

1807年(8歳)
 6月、オラトリオ修道会の経営するヴァンドーム学院に寄宿生となる。父ベルナール『盗難、殺人予防策覚書』出版。以後この類のパンフレット執筆数年続く。12月末弟アンリ=フランソワ生まれる。サシェの貴族ジャン・マルゴンヌ(1780-1858)と母親の不義の子供とされている。

1813年(14歳)
 4月、濫読のためと思われる「1種の昏睡状態」に陥り、学院を出て自宅に引き取られる。在学中『意思論』を執筆したという。

1814年(15歳)
 7月、トゥールのコレージュで3年生をやり直す(9月まで)。9月、アルトワ伯提唱の成績優秀な生徒に対する「百合勲章」をトゥールのアカデミーから授与される。11月、父パリ第1師団の糧秣部長となり、一家でパリに赴く。ルピートル私塾2年に編入。

1815年(16歳)
 9月、ルピートル私塾を出てガンセー私塾に移る。シャルルマーニュ校の修辞学を受講。

1816年(17歳)
 11月、中等教育を終え代訴人ギヨネ=メルヴィルの事務所に見習い書記として入る。11月パリ大学法学部入学。かたわら博物館やソルボンヌでキュヴィエやサン=チレール、ギゾー、ヴィルマン、クーザンなどの講義を聴く。

1818年 (19歳)
 4月、ギヨネ=メルヴィルの事務所を辞め、公証人ヴィクトール・パセの事務所に見習い書記として入る。哲学に興味をひかれ「霊魂不死論」を執筆。

1819年(20歳)
 1月、法学バカロレア1次合格。4月、父退職し、その夏一家はパリ郊外ヴィルパリジに引っ越す。8月パセの事務所を辞め、公証人の道を拒んで、レディギエール街の屋根裏部屋にこもり、近くのアルスナル図書館で読書に没頭。いくつかの戯曲を試作。同じ8月父の弟ルイ・バルッサ、少女暴行殺人の廉で死刑となる。

1820年(21歳)
 5月、妹ロール、土木技師ウジェーヌ・シュルヴィルと結婚。戯曲『クロムウェル』を完成して義弟ので劇作家のアンドリューを交えた家族の前で朗読するが、文学の才能なしと酷評される。スコット流の中世ロマン『アガチーズ』、ルソー流の書簡体小説『ステニー』執筆。6才年長の大衆作家ル・ポワトヴァン・ド・レグルヴィルを知る。年末、レディギエール街を出て、ヴィルパリジに帰る。

1821年(22歳)
 ル・ポワトヴァンと大衆小説を共作。5月ガブリエル・ド・ベルニー夫人一家と知り合う。9月妹ローランス結婚。

1822年(23歳)
 この年からローヌ卿、オラース・ド・サン=トバンなどの筆名で『ジャン=ルイ』ほかの小説を発表。ベルニー夫人(45歳)との恋愛。22歳年上の夫人はドイツ人のハープ奏者の娘で16歳で結婚、9人の子供(うち4人死亡)があった。10月バルザック一家パリに移る。

1823年(24歳)
 1月、理解者である祖母サランビエ夫人死亡(73歳)。カトリックで正統王朝主義者ジャン・トマシーと知り合う。5月『最後の妖精』出版。

1824年(25歳)
 ジャーナリスムにさらに踏み込む。一家は再びヴィルパリジに住む。バルザックはパリにアパートを借りる。匿名で『長子権論』、筆名で『アネットと犯罪者』出版。

1825年(26歳)
 4月編集者ウルバン・カネルと共同で一巻本全集(ラ・フォンテーヌ、モリエール)を企画。妹ロールを介してダブランテス侯爵夫人(41歳)を知る。8月不幸な結婚をしたローランス2児を残して死亡(23歳)。匿名で『紳士法典』『ヴァン=クロール』出版。一連の小説による『生彩 フランス史』を構想する。

1826年(27歳)
 カネルとの出版業は経済的に失敗。バルビエなる印刷所監督と印刷所を買取り、6月印刷業者の免許を取る。初稿『結婚の生理学』を自分の所で印刷するが刊行せず。

1827年(28歳)
 7月印刷業が頓挫し、活字鋳造会社をベルニー夫人の出資も受けてバルビエ他1名と共同で設立。カネルの『ロマンチック年報』の編集を助ける。ユゴーと知り合う。

1828年(29歳)
 事業うまく行かず、バルビエは印刷、活字ともに手を引く。4月活字鋳造業をベルニー夫人の息子に譲り、夫人が1万5千フランの負債を肩代わりする。結局彼の借財は6万フランに上りその大半は母親に対するものとなった。9月パリを発ってフジェールに行き、ポムルール将軍邸に約1ヵ月滞在。歴史小説『ふくろう党』にとりかかる。

1829年(30歳)
 3月『最後のふくろう党』発刊。この年から筆名でなく本名を署して後の『私生活情景』を構成する短編を多く発表し始め、様々な文芸サロンに出入りする。ズルマ・カロー(33歳)との友情深まる。6月父ベルナール=フランソワ死す(83歳)。12月『結婚の生理学』を匿名で発表して評判となる。

1830年(31歳)
 創作、社交いずれも活発。エミール・ド・ジラルダンと組んでジャーナリスムの活動もめざましく、多くの新聞、雑誌に短編小説や論評を寄稿、ロマン派に親近しつつ、独自の態度を示した。4月、6つの短編からなる『私生活情景』を発刊。6月ベルニー夫人とトゥレーヌに赴き、トゥール近郊の<ざくろ屋敷>に滞在する。9月、7月王政下のパリに帰る。

1831年(32歳)
 1月『あら皮』出版。文名大いに上がる。代議士に立つことを考え、資産家の女性との結婚を考えるが果さず、ベルニー夫人やカロー夫人の屋敷を訪れて執筆する生活。サロンでさらに友人を得る。音楽家ロッシーニ、政治家フィツ=ジャム侯爵、ジョルジュ・サンドなど。6月ジラルダンと閨秀作家ソフィ・ゲィの娘デルフィーヌとの結婚の立会い人となる。文通を求めてきたカストリ侯爵夫人(35歳)との関係深まる。9月『あら皮』と12の短編を収めた『哲学小説集』出版。

1832年(33歳)
 3月オデッサから「異国の女」と署名のある手紙受け取る。カストリ侯爵夫人の歓心を買うため正統王朝主義を称える。執筆活動さらに旺盛。諸雑誌に短・中編を寄稿。また社交も派手で多くの借財を負う。執筆契約・借財のいたちごっこ。この間ベルニー夫人との逢瀬(4月)やカロー夫人邸への滞在(7月)、カストリ侯爵夫人とスイスに落ち合い、手痛い拒絶にあったりする(10月)。11月「異国の女」より2通目。以後エーヴ・ハンスカ夫人(32歳?)との生涯にわたる文通と恋愛始まる。この年新しく『ことづて』、『アディュ』『トゥールの司祭』『30女』などを収めた『私生活情景』第2版、『風流滑稽譚』第1集、『新哲学小説集』出版。

1833年(34歳)
 社交の輪さらに広がる。女流詩人マルスリーヌ・デボルド・ヴァルモール(47歳)を知る。9月スイスのヌシャテルでハンスカ夫人と初めて会う。12月ジュネーヴで彼女と再会。この年、後の『人間喜劇』につながる風俗小説集を構想し、ジャーナリスムの雑文を控えて、ひたすら小説を多数発表する。『ルイ・ランベール』、『風流滑稽譚』第2集、『田舎医者』など出版。10月「私生活情景」、「地方生活情景」、「パリ生活情景」の各編からなる『19世紀風俗研究』12巻の出版契約を結ぶ。

1834年(35歳)
 1月ジュネーヴでハンスカ夫人との「忘れがたい1日」。2月パリに帰って社交生活。ヴォートランのモデル、ヴィドックと会食したり、ベートーヴェンの第5交響曲を聞く。6月「1年だけ愛した」マリア・フレネィ(25歳)女子を生む。パリでギドボニ=ヴィスコンティ伯爵夫人(30歳)と知り合う。『19世紀風俗研究』の構想はさらに『哲学研究』『分析的研究』に発展、同じ作中人物を他の小説に登場させて、有機的に作品群をつなぐ<人物再登場法>を思いつき、9月サシェ滞在中に書き始めた『ゴリオ爺さん』に適用、彼の創作の規模も内容も飛躍させるものとなった。この年、『風流滑稽譚』第3集 、『セラフィタ』、『田舎医者』、『19世紀風俗研究』(『13人組物語』『30歳の女』『絶対の探究』を含む)刊行。

1835年(36歳)
 3月カッシニ街のほかにシャイヨに住まいを持ち(債権者から逃れるためともいう)、ヴィスコンティ伯爵夫人と逢う。5月ウィーンに発ち、ハンスカ夫人に再会。同地でメッテルニヒとも会見。ワグラムの古戦場を見る。7月ブロニエールに前年から心労で体調を崩し、いまや病篤いベルニー夫人を見舞う。11月「パリ評論」に『谷間の百合』を掲載し始める。12月「パリ通信」経営権取得。  3月出版の『ゴリオ爺さん』の成功は彼の天才を確信させ『人間喜劇』への巨大な1歩となった。フェリックス・ダヴァンの序文を付し『金色の目の娘』、『夫婦財産契約』を含む『19世紀風俗研究』再刊。『セラフィタ』『追放者』『ルイ・ランベール』を収めた『神秘の書』出版。

1836年(37歳)
 1月『谷間の百合』無断掲載について「パリ評論」と裁判で争う。1部勝訴。4月27日より1週間国民軍就役不履行のため禁固。5月ヴィスコンティ伯爵夫人との間に出来たとされる男子誕生。6月サシェに滞在して『幻滅』書き始める。7月「パリ通信」の経営失敗。ギドボニ=ヴィスコンティ伯爵の相続整理を託され、男装のマルブティ夫人を甥と称してトリノに同行、その翌日7月27日ベルニー夫人死す(59歳)。8月パリに帰るが、債権者の追求急となり、カッシニ街を出てシャイヨの屋根裏部屋に潜む。11月タレイランと会食。雑誌に多く小説を発表するほか10月ジラルダンの「プレス」誌にフランスにおける最初の新聞連載小説『老嬢』掲載。初期小説を集成する『オラース・ド・サン=トヴァン全集』刊行。『谷間の百合』出版。

1837年(38歳)
 2月「パリ通信」の共同経営者の債務請求から逃れ、ヴィスコンティ伯の世話でミラノに行く。同地のクララ・マフェ伯爵夫人(23歳)を知る。ヴェニスほかイタリア各地をまわったあとスイスを旅して5月パリ帰還。7月債務不履行で収監の危機に瀕する。9月セーヴルの通称<レ・ジャルディ>の家つき地所を買う。『老嬢』、『幻滅』第1部を含む『19世紀風俗研究』最終配本。『無神論者のミサ』『ファチーノ・カーネ』などを収める『哲学小説集』第3版5巻、『セザール・ビロトー』など刊行。

1838年(39歳)
 2月ノアンのジョルジュ・サンドを訪れ、後の『ベアトリックス』の主題となる議論を交わす。このころ検討していたサルディニア銀鉱山の開発を実行に移すべく、5月パリを発って、海路サルディニア島に行き調査するも既に採掘権は他人の手にあり失望する。7月ダブランテス夫人死亡(54歳)。<レ・ジャルディ>に落ち着く。12月文芸家協会員となる。新聞連載は十月『骨董室』と十2月『イヴの娘』のみ。『ニュシンゲン商会』『しびれえい(『浮かれ女盛衰記』の第1部)』刊行。

1839年(40歳)
 1月劇作の手助けとしたシャルル・ラッサイ去る。戯曲『夫婦学校』上演されず。8月文芸家協会会長となる。8月30日、ベレーの公証人で旧知のペイテル、妻殺害の罪で死刑を宣告され、9月画家ガヴァルニと共に彼に会い調査する。パリに帰ってペイテル冤罪の論を発表するが、10月28日処刑。この年、『村の司祭』、『ベアトリックス』など新聞連載旺盛。『骨董室』『エヴの娘』『幻滅』第2部出版。

1840年(41歳)
 1月文芸家協会会長をユゴーに引き継ぐ。『ピエレット』を「世紀」誌に連載し始める。2度検閲で差し止められた戯曲『ヴォートラン』を修正し、3月14日上演するも、翌日内務大臣の命により禁止。4月別の戯曲上演を計るが、俳優フレデリック・ルメートル拒否。戯曲『パメラ・ジロー』『メルカデ』を執筆。7月『パリ評論誌』を個人編集で創刊し、『文学書簡』『Z・マルカス』『ベイル氏研究』などを発表するが、9月3号で廃刊。<レ・ジャルディ>差押えられて手放す。10月パッシーのアパートに、家政婦兼愛人の「ブリュニョル夫人」と住む。

1841年(42歳)
 1月文芸家協会名誉会長に選ばれる。著作権の問題に尽力。6月ユゴーのアカデミー・フランセーズ入会式に出席。マリー・ダグーのサロンやジラルダン夫妻、サンド邸などに出入りする。10月2日『人間喜劇』出版の契約をフュルヌ、エツェル他の4出版者と結ぶ。エツェル「総序」の執筆を慫慂。11月10日ハンスカ夫人の夫ハンスキ氏死亡。年頭から『暗黒事件』始め新聞連載多数。『ラ・ラブイユーズ』『村の司祭』『ユルシュール・ミルエ』『二人の若妻の手記』など。

1842年(43歳)
 1月ハンスキ氏の死亡を知り、夫人と結婚できると張り切るが、彼のこれまでの不実や借財などを理由に保留され、手紙で嘆願、誓約を繰り返す。3月『キノラの策略』上演。4月『人間喜劇』第1巻配本。4月前年より同居していた母親別居。7月依頼していた「総序」執筆をサンドが断ってきたため、結局自ら執筆、彼の小説、人間、歴史、宗教などに関する思想を体系づけることになった。この年『アルベール・サヴァリュス』『人生の門出』『現代史の裏面』『ラ・ラブイユーズ』第2部などを各紙に連載。

1843年(44歳)
 3月アンデルセンと会う。7月18日パリを発って、海路ハンスカ夫人が滞在するペテルスブルグに向かう(7月29日着)。8月21日近衛兵の観兵式を見て日射病にかかる。10月初旬帰国の途につき、陸路ベルリンを経て11月3日パリに帰る。症状良からず医師ナカール慢性髄膜炎と診断。12月アカデミー・フランセーズ立候補を断念する。『オノリーヌ』、『浮かれ女盛衰記』、『幻滅』第3部などを各紙に連載。

1844年(45歳)
骨董品蒐集にのめり込み、ハンスカ夫人との結婚のため新しく家を買うことを考える。体調ますます悪く、黄疸や神経痛に苦しむ。亡夫の遺産問題が片づいたハンスカ夫人は、領地ウクライナに帰り、冬はドレスデンで過ごす。彼女に日課のように手紙を書きつつ、執筆依然として盛ん。『モデスト・ミニョン』『ゴディサールII』『農民』などを連載。『人間喜劇』も順調に刊行。

1845年(46歳)
 4月ミュッセなどと共にレジオン・ドヌール5等勲章を受ける。5月ドレスデンにハンスカ夫人、娘アンナとその婚約者に会う。7月母娘を引き連れパリに戻る。8月ストラスブールからライン河を下りオランダを経由してブリュッセルで別れ、単身パリに戻る。9月下旬再び母娘の滞在するバーデンに向かう。10月一行はフランス、ソーヌ、ローヌを下って、マルセイユから海路ナポリへ。ハンスカ夫人たちを帰して、ピサを見たあと、11月中旬パリに帰る。新聞各紙に『実業家』『結婚生活のささやかな悲哀』などを発表。

1846年(47歳)
 2月出版者エッツェルと不和となる。3月パリを発って、ローマでハンスカ夫人に会う。4月下旬北イタリアからスイスに入り、5月ハイデルベルクで夫人と別 れ、月末パリに戻る。ハンスカ夫人から妊娠を告げられ喜ぶ。9月間近い結婚を考えフォルチュネ街に家を購入。10月夫人の娘アンナの結婚の証人となるためドイツのヴィースバーデンに行く。12月1日ハンスカ夫人ドレスデンで流産の報届く。落胆甚だしく筆を執る勇気失せる。 『いとこベット』の連載始まる(10月)。『人間喜劇』全16巻が完結。

1847年(48歳)
 1月、ハンスカ夫人の要望により、「家政婦」ブリュニョル夫人を解雇。2月4日フランクフルトにハンスカ夫人を迎えてパリに伴い、名を秘して住まわせる。原稿の執筆や校正のかたわら、オペラ、コンサート、芝居に同道、5月フランクフルトまで夫人を送る。解雇したブリュニョル夫人からハンスカ夫人の手紙などを種に脅迫され困惑する。6月28日全財産をハンスカ夫人に送る旨の遺言書を作成。7月「プレス」誌を経営するジラルダンと不和になり、『農民』掲載中止。9月5日ウクライナのハンスカ夫人のもとに鉄道で旅立つ。同月13日領地ヴィエシホヴニアで夫人に迎えられ翌年1月まで滞在。連載執筆は『いとこポンス』、『アルシの代議士』『ヴォートラン最後の化身』など。

1848年(49歳)
 2月15日パリに帰る。23日パリに2月革命勃発。チュイルリー宮略奪の現場にいあわせる。3月ブリュニョル夫人結婚し係争解決。5月戯曲『継母』上演。6月サシェに滞在。7月8日シャトーブリアンの葬式に列席、空席となったアカデミー・フランセーズに立候補を考える。9月19日汽車でパリを発ち10月2日ウクライナ到着。新聞連載は『現代史の裏面 』第2部のみ。

1849年(50歳)
 5月キエフにハンスカ夫人と出かけたほかは、ずっとウクライナに滞在。体調全く悪く心臓肥大やその他の発作に苦しむ。7月ロシア皇帝、ハンスカ夫人がフランス人と結婚すれば財産没収と通告。アカデミー・フランセーズの選挙(1月)に落選。

1850年(51歳)
 1月重い風邪にかかり、健康をさらに損ねる。3月12日ハンスカ夫人と待望の結婚式をベルディチェフの教会で挙げる。4月23日ゲーテ座『ヴォートラン』を無断で上演。抗議する。4月24日帰国の途につくが、雪解けが終わらず、悪路に難渋する。3月20日(21日?)パリに着くが、召使が精神に異常を来していて、中に入れず、錠前屋を連れてきて戸を開ける騒ぎとなった。30日ナカールほか3人の医師が治療にあたる。6月1日夫婦相互に遺書を作成する。病いよいよ重く、7月4日の「世紀」誌、大統領ルイ・ナポレオンがバルザックの病状を憂慮する記事を掲載。8月18日ユゴー見舞いに来て面会謝絶され、夕食後再訪して意識のなくなったバルザックを見舞う。その夜11時半、バルザック死亡。8月21日サン=フィリップ=デュ=ルールで葬儀。ペール・ラシェーズ墓地までユゴー、デュマ、サント=ブーヴなどが付添い、墓地でユゴーが追悼演説をする。

1854年(死後4年)
 8月1日母親アンヌ=シャルロット・ロール・バルザック夫人死亡(76歳)。

1882年(死後32年)
 エーヴ・バルザック夫人死亡(82才?)。

(柏木隆雄編)
画像提供者:草壁八郎、澤田肇、松村博史、村田京子